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2021年1月 8日 (金)

危機管理からみたコロナ"緊急事態宣言”

 政府の有識者会議メンバーでもある日本大学の福田教授へのインタビューがデジタル毎日に掲載されていた。コロナ対策が危機管理であることは自明のことなのだけど、容量不足もあって私の頭の中からは消えていた。他の論者とは少し違った視点からの話は一聴に値すると思うのでご紹介。

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場当たり対応の末の「戦略なき発令」

 危機管理専門家が見た緊急事態宣言

毎日新聞(最終更新 1月8日 08時00分) 塩田彩

 新型コロナウイルスの感染者増加と医療体制の逼迫(ひっぱく)を受け、政府は7日、首都圏の1都3県を対象に、新型インフルエンザ等対策特別措置法に基づく「緊急事態宣言」の再発令を決定した。昨年末まで発令に慎重な姿勢を示してきた菅義偉首相の方針転換を、危機管理の専門家はどう見ているのか。日本大危機管理学部の福田充教授に聞いた。【塩田彩/統合デジタル取材センター】

危機管理と呼べない政府の対応

 ――昨年秋の感染再拡大から今回の緊急事態宣言発令決定までの政府の動きを、危機管理という視点からどのように評価していますか。

危機管理学の視点から新型コロナウイルス対策について語る福田充・日本大危機管理学部教授=東京都世田谷区で2020年11月17日、大西岳彦撮影

 ◆本来であれば、緊急事態宣言のような強い対策は、タイミングを含めて、政府が戦略的、主体的に判断すべきものです。菅首相は、昨年末までは経済を回すことを優先し、緊急事態宣言の発令には後ろ向きだと報道されていました。結局、世論の動きと1都3県の知事の要請を受け、押し切られる形で発令に踏み切ったように見えます。

 経済を回すことを優先するならば、感染再拡大を見越し、医療崩壊が起きないよう医療キャパシティーを拡充して備え、さらに一定程度の死者数は受容してほしいと、国民に責任を持って説明し続けるべきでした。そうした準備も国民への説得も行わないまま、のらりくらりと「GoToキャンペーン」を続け、感染者数が増え、病床も満床になってから、結局、方針を変えて緊急事態宣言を出す。こうした対応は、危機管理とは呼べません。

 さらに、緊急事態宣言の内容も極めて中途半端だと思います。飲食店の営業短縮や夜間のみの外出自粛、テレワークの推奨などに限定し、人との接触8割減という目標を掲げた昨年4月の宣言時のような包括的な自粛要請はとっていません。感染症の危機管理対策の原則は、「強く、早く、短く」です。感染拡大の早い段階で、「ロックダウン(都市封鎖)」のような強い規制を短い期間に限って実施する。そうでなければ、経済への打撃や、社会不安や混乱といったダメージが拡大してしまいます。

 安倍晋三政権時から続いていることですが、日本政府は、新型コロナウイルス危機にどう対処するのか、方針と戦略が全くなく、ふらふらと場当たり的に対応しているようにしか見えない。そこに大きな問題があると感じています。

 ――場当たり的な政府対応の背景には何があるのでしょうか。

 ◆私は、新型コロナ対策は、原則としてハード管理戦略とソフト管理戦略のどちらかの方針を打ち立てることが重要だと考えています。経済活動を犠牲にしてロックダウンのような強い私権制限を伴う戦略がハード管理戦略、逆にスウェーデンのようになるべく規制をかけず集団免疫の獲得を目指す代わりに、一定の死者数が積み上がることを受け入れるのがソフト管理戦略です。

 日本では、強い私権制限を伴うハード戦略は、憲法との兼ね合いや現行法制度で罰則規定がないという限界があり、とれなかった。一定の死者数を覚悟しなければならないソフト戦略も社会的に受け入れられなかった。そのため、経済を回しながら感染予防を徹底するという難しい道しかありませんでした。そのこと自体は、仕方がなかったと思っています。

 しかし、この難しさを、果たして政治リーダーがどれだけ自覚し、また国民に言葉を尽くして説明してきたでしょうか。危機感を国民にきちんと伝えることができていなかったことが、これほどの感染再拡大につながったと思います。

最も「正常化バイアス」が起こりやすい危機

 ――昨年末には、菅首相の会食が問題視されるなど、メッセージを発する政治側の危機意識の低さもあらわになりました。難しい道を選択したのだという自覚自体が、菅政権になかったようにも見えます。

 ◆新型コロナは新しい危機であり、対策として何が正解かわからない。難しいのは当たり前ですよね。だからこそ、その難しさを正直に国民に伝え、「こういう方針で対策を進めるけれど、間違うかもしれない。でも失敗したら柔軟に修正し、折々できちんと説明をしていくから、国民も協力してほしい」と常に訴え続ける「リスクコミュニケーション」が必要でした。

 さらに今回難しいのは、被害を自分のこととして実感しにくいということです。テロや災害であれば、目の前に崩れた土砂や壊れた家屋などの被災地がある。でも、感染症は目に見えません。自分の家族や近い人が感染していなければ、自分が危機的状況にいるのだということを認識しづらい。最も「正常化バイアス」が発生しやすく、自分のことにしづらいのが感染症、さらに言えば、致死率が相対的に低い新型コロナのような感染症なのだと思います。

 政府は、自分のこととして考えられない人たちに向けて、行動変容を訴えかけるリスクコミュニケーションを続けなければなりません。しかし、安倍政権も菅政権も、そうした説明を避け続けてきました。それは、大きな危機において、政治が責任を取ろうとしないということと同じです。自民党政権下で続いてきた無責任体質が、菅政権になってさらにひどくなったと感じます。まずは責任を引き受け、きちんとコミュニケーションをとるところから立て直しを図らなければ、この規模の危機を乗り越えることはできないと思います。

 会食問題に象徴される政治家の危機意識の低さは、国民の信頼感を失わせます。信頼できないリーダーの説得を誰が聞くでしょうか。先ほど言ったとおり、被害が見えにくい新型コロナ危機では、リスクコミュニケーションや説得のためのコミュニケーションが特に重要です。そのためには国民の信頼を得なければならないのだという意識が、政治側にまったく足りていないのです。

 ――安倍政権の時もそうでしたが、菅政権でも、政治家が専門家の言葉を借りる場面が目立ちます。

 ◆昨年7月に東京都民を対象に新型コロナに関する調査をしました。政府や知事などさまざまなアクターの中で、都民の信頼度が最も高かったのが専門家でした。必要な情報を社会に積極的に発信し、一生懸命国民に協力を訴えかける専門家の思いが人々に伝わった結果だろうと思います。彼らが呼びかけたからこそ、昨年4月の緊急事態宣言下で、強制力がなくてもある程度の行動変容ができたのだと言えるでしょう。

 ただ、専門家集団を政治がどうマネジメントし、知見を政策に生かすかが、シビリアンコントロール(文民統制)としては重要です。今回は感染症だから医療の専門家ですが、これがテロや戦争であれば、専門家集団は軍人や警察官になるかもしれないのです。

 ですから、現場にいる専門家に政策決定の判断を委ねることは、本当はあってはならない。国民が選んだ国会議員が専門家の知見や経験を合法的に取り込み決断することが求められています。専門家を批判の矢面に立たせ、対策が失敗した時の責任すら負わせる状況に追い込むような政治と専門家の関係性を作るべきではないと思います。

緊急事態宣言下での罰則化議論は「リスキー」

 ――18日召集の通常国会で、緊急事態宣言の根拠となっている特措法の改正案が議論されることになりました。店舗の時短営業などの要請に罰則を盛り込むかが焦点です。この動きをどのように見ていますか。

 ◆大前提として、危機に関する法律を危機の最中に変えることは危険だというのが私の立場です。危機に関する法律は、平常時に時間をかけて冷静に議論し、改正あるいは立法するというのが筋だと思っています。

 社会心理学で「リスキーシフト」という概念があります。危険な状況に置かれているグループの中で議論をすると、結論が極端になるという理論です。例えば、1995年にオウム真理教による地下鉄サリン事件が起きた時には、宗教団体の監視を強化すべきだという声が非常に増えました。私自身が実施した調査でも、信教の自由も場合によっては制限すべきだと回答した人の割合も高くなりました。似たような現象は2001年の9・11同時多発テロ直後のアメリカでも起きました。

 特措法改正の議論でも、このリスキーシフトは起こり得ます。感染がこれほど拡大する中で、私権を制限する特措法の改正を本当にすべきかどうか、冷静に考える必要があるのではないでしょうか。

 ――報道によると、行政の指示に強制性を持たせ、従わない業者や個人に罰則を設けることが検討されているようです。

 ◆懸念しているのは、今回の新型コロナの毒性と罰則とのバランスです。現在の特別措置法は、もともと強毒性の新型インフルエンザの感染拡大防止のために、12年に作られた法律です。当時の新型インフルエンザの想定死者数は64万人。南海トラフ巨大地震の想定死者数が32万人ですから、実に倍です。そこまでの被害が起こりうると想定されたために、緊急事態宣言のような、私権制限に踏み込む法律ができたという経緯があります。それでも現行法では罰則は規定されていないのです。

 新型コロナは、感染力は強いものの、致死率は1%か、それ未満と言われています。法律の当初の想定を俯瞰(ふかん)した時、新型コロナ対策として罰則を規定することは、法的にバランスがとれていると言えるでしょうか。今回罰則を導入すれば、もっと強毒の新しい感染症が現れた時、さらに制限が強められていく、規制が雪崩式に強化されていく可能性もあります。 

 今回議論されているのは、飲食店への休業要請や命令に対する補償とセットにした罰則ですが、対象が今後広がっていくことはないのかも、慎重に考える必要があると思います。飲食店であれば飲食や宴会の規制にとどまりますが、今後、スポーツやライブが含まれてくるかもしれない。あるいは、講演会や政治集会はどうか。最終的には、憲法で保障された表現の自由や政治活動の自由の侵害につながる議論なのです。

 特措法による私権制限は国民全員に関わってきます。テロ等準備罪などの議論の際には反対の声が非常に強かったけれど、今は一部の野党やメディアも罰則導入を支持しています。政治性のない感染症であれば簡単に私権制限してもいいと言うのでしょうか。場当たり的に、目の前で人々が酒を飲んで大騒ぎしているのが許せないから罰則を付けろというのは感情論であり、過度な私権制限や法治主義の破壊につながりかねない。慎重に考えるためには、次の通常国会で改正法案を成立させるのではなく、もっと時間をかけるべきだと私は思っています。

 ――平時に冷静に議論すべきだというのはその通りですが、議論の先延ばしにつながらないでしょうか。

 ◆そうですね。平常時に議論すべきだというのは理想であり、大原則です。目の前にある危機を乗り越えるために、必要に迫られて法律を変えることもありうるということは理解します。ただ、その中でも原則をきちんと持っておくことが、歯止めやバランスを失わないために大切なことだと思っています。

 特措法の改正は、罰則の導入が注目されていますが、他にもさまざまな論点があります。例えば、政府と都道府県の権限の分担が曖昧だという点です。法的根拠に基づく緊急事態宣言を発令できるのは国ですが、実際に具体的な指示を出すのは都道府県です。この権限と責任の所在の曖昧さは、根本的に変えていかなければいけないポイントだと思います。

 また、緊急事態宣言を出す要件も曖昧です。感染症の毒性の強さや感染状況を鑑みて、ということになっていますが、極めて抽象的な基準です。結局、政府が判断しきれずに、感染が拡大した後で発令することになってしまう。最初に言ったように、対応が後手後手になる理由は政治のリーダーシップの欠如にもありますが、法的な課題もあると考えています。

 こうしたことをすべて見直すと、おそらく今回の新型コロナウイルスへの対応としては間に合わない。やはり原則としては、次の新しい感染症危機を見据えた改正議論を、時間をかけてすべきだと思っています。安全・安心と自由・人権のバランスをどう取っていくかを、国民の間で合意形成を図りながら、コミュニケーションをとりながら議論していく。その訓練を積み重ねていくべきだと思います。

ふくだ・みつる

 1969年生まれ。専門は危機管理学、リスクコミュニケーション、テロ対策、インテリジェンス、災害対策など。内閣官房新型インフルエンザ等対策有識者会議メンバー。著書に「テロとインテリジェンス~覇権国家アメリカのジレンマ」(慶応義塾大学出版会)、「リスク・コミュニケーションとメディア」(北樹出版)、「大震災とメディア~東日本大震災の教訓」(北樹出版)など。

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