国家の底が抜けてしまったような・・・
森友、加計、に続き“桜を見る会”問題が起きたのだが、一連の政府対応をみてみるともはやシステムとしての国家の底が抜けてしまったのではないかという気がしてくる。G7参加国の中で日本と「価値を共有している」と思ってもらえる国がはたして残っているのかどうか?(価値なんて問題にしないあの国のトップは別かもしれないが。)
毎日新聞のコラムに感じ入る記事があったのでご紹介。
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「時代の風」
“一線を越えた政権トップ 今だけ・金だけ・自分だけ”
藻谷浩介・日本総合研究所主席研究員
毎日新聞2019年12月22日 東京朝刊
ラグビー・ワールドカップ(W杯)などの楽しい話題もあったのに、そして来年には東京五輪・パラリンピックも行われるというのに、まことに寒々とした年の暮れとなってしまった。気候ではなく、世相のことである。「目的のためには平気で一線を越える」という態度が、政権トップから世間の末端にまでまん延しているではないか。
健全な人間、健全な組織は「この一線は越えない」という自主ルールを持っている。周りがどうしているかに関係なく、また法に触れる触れないという以前に、「これはやってはいけない」「やらない」という基準が、まず自らの中にあるのだ。公職選挙法違反がささやかれる政治家や、関西電力の経営陣などは、残念ながらそういう自己基準と無縁だったとしか思えない。もし日本中の政治家や経営者が彼らと同じようなレベルになれば、日本は秩序ある法治国家としての体をなさないことになる。
昔は自らを律する者を大人といい、律せないのを子どもといった。つまり日本は、昔より子どもじみてしまったようだ。お受験教育で子どもに「大人になれ」と求めないばかりか、「とにかく点を取った者が偉い」と教えているのだから、「目的のために一線を越える」態度を育んでいるようなものだ。自分を律することができない「大人の顔をした子ども」ばかりになって、日本は大丈夫なのか。
しかも嘆かわしいことに、一線を越える理由が、公のためでも未来世代のためでもなく、「今だけ」「金だけ」「自分だけ」のいずれか、もしくは全部なのだ。「桜を見る会」の問題で国会議員から提出を求められた公文書を、要求があってから「ルール通り」廃棄する行為も、「反社会的勢力の統一的な定義は困難」と閣議決定して批判をかわす行為も、不明朗な「公金」支出をしてしまった「自分」の身を守って「今」をしのぐ所作である。
それでも安倍晋三政権を支持する有権者は、なお4割程度いるという。だがその4割の中にたとえば、「異次元の金融緩和で名目成長率3%を達成」と期待し続けている人や、「アベノミクス新三本の矢」を覚えている人は、もはやいないのではないか。他方で「株価が高値を続けている限り辞めなくてよい」と、これまた「今だけ・金だけ・自分だけ」の発想で支持層になっている人は、結構な数がいるように思える。
公金を投じた株価維持が、ここまで支持固めに役立つとは、政権関係者自身も驚いているのではないか。公的年金の積立金を運用する年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF)は、運用額の半分を内外の株式市場に投資している。米国では一般国民を対象にした年金での株式運用が禁じられているが、日本の現政権は軽々と一線を越えた。日銀も上場投資信託(ETF)を年間6兆円購入し、保有残高は30兆円に近づいている。このままでは主要上場企業の筆頭株主が軒並み日銀になってしまいそうだ。もし株価が下がれば年金や日銀は大打撃を受けるが、そこで株式を売却するとさらに株価が下落するので、もうにっちもさっちもいかなくなってしまう。
ネットの政治ニュースの末尾には「政権のやり方はひどい。でも安倍首相の代わりはいない」「野党はもっとどうしようもない」というコメントがあふれかえっている。これらの投稿は政権応援団の高等戦術だと思うが、それにしても書いている人間たちに問いたい。野田佳彦前首相に桜を見る会のような公私混同はあっただろうか。人格識見で石破茂・元自民党幹事長が首相に劣るだろうか。「どうしても山口から首相を選ばなければならない」なら、林芳正・元文部科学相ではどうか。さらにいえば、実質的に政権を動かしている菅義偉官房長官や二階俊博幹事長を表でも首相に据えたとして、今以上に何かまずいことでもあるのか。
一つ指摘したい。世界経済が今後バブル崩壊局面になれば、一線を越えて副作用だらけの経済政策を乱発したツケが回ってくるだろう。その責任を首相自身と取り巻きにとってほしいと、政権外の有力政治家や、多くのまともな経済人は考えているのではないか。「『好景気のうちに辞め逃げ』は許さない。政策の結果責任は今後も問われ続ける」と内心思う人は、この年の瀬に確実に増えている。
=毎週日曜日に掲載
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